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2007.11.22

会議は議事録をとるためにある、という考え方

サルガッソーの鈴木健さんの「究極の会議」を読んだ。会議というのはプロジェクト目的と目標のもとに作業に分解し、日付を与えて会議体で運営していくものだ。プロジェクトマネジメントではそういう理解だ。

この会議体の運営において、「会議は議事録を作るためにある」という。
こういう言い方があったんだ!うまい!

会議というのは僕にとってこのような動きをするものだとずっと認識していた。

会議冒頭に全体計画とゴールを確認し、論点を決めプロジェクターで会議アジェンダや資料を投影しながら議論し、結論を出していく作業だ。

進捗報告の中から予定と大きく違うギャップ点=論点として問題解決をしていく。また次回の積み残しは宿題になって必ずデッドラインを決めて解決できるようにする。

次回までの作業も細分化して明確にし、作業宿題を作る。

会議全体が問題解決のためにあるという認識があれば、意欲をもってこれだけで十分に動くものだ(近藤哲夫さんの「企業小説プロジェクトマネジメント」に詳細が書かれている)。

最近コラジェクタという言い方も知ったが、これこそ会議だと思っていた。

鈴木さんの本は実に軽快にかかれているのがとてもいい。

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2007.11.18

雑誌に記事が出ました(日本能率協会)

 日本能率協会発刊『JMAマネジメントレビュー』さんが取材してくれました。11月号に「企業内ビジネススクールの可能性」というコラムになっています。

  • 30代半ばの受講生のキャリアを考えると、業務の責任者として業務 には精通しているが、会社経営の全体像をっかみきれず心の底に不満をかかえ部分最適の判断をしやすい。…
  • この時期に、経営の全体像を理解し戦略構築を促すプログラムに参加してもらうと、会社経営のおもしろさに改めて気づき、ロイヤルティーが俄然上がるのです。…
  • 企業のその時々の課題解決や戦略分析をさせながら、経営のおもしろみを伝えていくのが企業内ビジネススクールの役割でもあると思います。…
  • それに、さまざまな部署から人が集まるので、人材の再発見の場、部門の壁を打ち破る思考の場にもなる。業務のなかでは決して出すことができない、会社全体を視野に入れた能力や個人の意見を知ることができる。…

ここ数年企業内ビジネススクールのコーディネータを複数担当することができました。この経験を通じて、30代半ばの受講生の教育に大きな意義を感じています。僕の割と本音の部分を含めて取材していただきました。

http://www.jma.or.jp/activity/rev0711.html

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2007.11.11

なかなかブログを書けないでいますが理由がありまして

 自分の中でやり方、生き方に大きな変化が生じています。今での人生を少しだけ否定したくなるような、そんな思考、行動の変化が生じています。

 結果的には変化が大きくても、心の中では静謐で着実な生き方がよいと思い続けてきたようなのですが、どう検証してもそういう生き方で成果が生まれにくいと思いはじめました。成果というのは、今の僕にとって影響力という言葉がいちばん近いかもしれません。

 少し人生の方法論を模索しようと考えています。模索のあとは<はてな>のブログに出そうと思っています。都度、僕の考える人生方法論を記していこうと思っています。http://d.hatena.ne.jp/takaosue/

 またよりネットで生きることを鮮明にするためにブックマークを充実させようと思います。http://b.hatena.ne.jp/takaosue/

 少しだけココログとはてなをいったりきたりすると思いますが、おつきあいいただければと思います。

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2007.11.03

群衆の叡智は質問という行為から生まれる(訂正)

テックスタイルの岡田さんのご紹介で、群衆の叡智サミットを聴講させていただいた。僕がいたのは1時間ほどだったけれどとてもとても考えさせられた。

群衆には叡智と狂気があって最近の話題は叡智だ。僕にはまず「群衆の狂気」が頭の中にある。あまり肯定的に考えにくいところがあった。

群衆の叡智論は多分参加された沢山の方が紹介されるだろう。僕にとって、突き動かされるテーマはOKWAVEの兼元さんの意見だった。韓国と日本、中国と日本といった政治的歴史的に大きな志向性の違う環境がある場合、群衆の叡智は働きにくい。

兼元さんによれば、目的の違う人たちが何らかの共有ができるとすればそれは質問という形でしかない。どんなに感情の隔たりがあったとしても、相互に疑問を感じ理解しようとする、質問という行為を持続させることが、知の確かさにつながるといった意見だったように思う。

質問という行為には、理解を促す力、共有する力、他人の行動を促す力があるという意見はとても共感できる。

質問という行為を続けることは、群衆に叡智が生まれなくても、個々人に叡智が生まれる可能性が高いということにも同感だ。その先に大衆の叡智がある。

質問という行為の持つ意味について、大変な勉強をさせていただいと思う。岡田さん、兼元さん、本当にありがとうございます。

(訂正)

群衆の叡智セミナーではなく群衆の叡智サミットでした。summitは首脳会談、頂上会議の意味です。意見を集約するのではなく、一家言ある専門家の意見を拡散して最大公約数を明らかにする会議だったと思います。

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